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磯崎眠亀物語

  第六章 実業家への道 −備中茶屋町今神戸−

岡山製莚所

しかし、眠亀の苦労はこれで終わったかというとそうではありませんでした。

「すばらしいものだ。見事な花むしろだ。」

 人々は口をちぎってほめましたが買おうという人はいません。それもそのはず、非常に精巧な図がらを織り出すので一枚織りあげるにも手間がかかり、そのころの金で三円(今では一万円余)というのですから、一般の人々には手のとどかぬ高級品だったのです。

 50歳になった眠亀は神戸へ行き、外国人を相手に売り込みを試みてみました。初めはうまくいきませんでしたが、貿易商浜田篤三郎の目にとまり、イギリスのロンドンへ売り出すことに成功しました。これが花莚輸出の最初で、明治一四年のことでした。

 これがきっかけで外国で評判をとると注文がしだいに多くなり、明治19年(1886)岡山に磯崎製莚所をつくったのを手はじめに、玉島、茶屋町そのほかへ八つの工場をつくり、従業員も千人を越す発展ぷりとなりました。

 明治25年ごろになると、ますます世界的芸術品として有名になり、日本の十大輸出品に数えられるようになりました。そうなると眠亀も今や押しも押されもせぬ大実業家です。

 明治30年になると、錦莞莚に似た平織の綾莚(茶屋町綾莚社)紋花莚(岡山)なども製造され、アメリカ向け花莚輸出638万円(現100億円程度)にも達しました。

 神戸から岡山、茶屋町へ向けてバイヤー(貿易商)がやって来、商人の出入りも多くなって、“備中茶屋町今神戸”とうたわれるようになったのもこのころです。

 眠亀の花莚がもとで岡山県南部の花莚産業は日本でも指折りのものとなり、眠亀自身も外国からの郵便はジャパン・イソザキの名で通用するまでになっていました。

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第七章 デラカンプ事件

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第五章 錦莞莚ついに完成

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