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Home » 茶屋町の偉人「磯崎眠亀」 » 第四章 錦莞莚の発明を志す第四章 錦莞莚の発明を志す −失敗につぐ失敗−
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こうしてかなり生活にゆとりを持った与三郎は、明治5年(1872)39歳のとき眠亀と名をかえ、商売をやめて、ひたすら発明と研究の道に専念することにしました。 表と裏が区別のつかない両面緞通(カーペット)を作りあけたのもこのころです。 オーストリヤのウィーンで万国博覧会が開かれ、日本の産業も世界に追いつかなくてはというときだけに、眠亀は地方産業の発展のために何がよいかをしきりに考えていました。 「やはり”い草”だ。この地方特産のい草を使った産業を興そう。よし、これだ。」 そう決心した眠亀の目は未来に向けてらんらんと輝き、すぐさま行動に移りました。明治7年(1874)畳表の織機を座式から立ち織り足踏み式に改良しまし た。畳表は今までより安く作られるようになり、一般に普及し、業者もふえてきました。しかし、これだけで満足するかれではありません。 明治8年(1875) 42歳を祝った眠亀は、新たに自分で設計した研究室を新築し、すでにつぎの発明にとりかかっていました。 「たか、いむしろのよいものはできぬものかのう、ひとり織り立機はできたが品質はかわらぬ。もっと品質のよいものを作りたい。」 ある日、妹尾村(今の岡山市妹尾)の殖物社を訪ねたとき、セイロン島から持ち帰ったという竜びん莚を見せられ、おおいに感動し、 「これだ、この精巧な織り方をぜひい草でやってみよう。」 すばらしいヒントを得た眠亀は小おどりしてわが家へ帰るなり、二階の研究室へ飛び込みました。図面を書いては破り、破ってはまた書きます。 “い むしろを精巧にするためには三尺(90センチ)幅に360本のたて糸を使わねばならない”“い草のしめつけにどんなオサがよいのか”二階にこもった眠亀は 下に降りようともしません。助手の万吉と財治郎は木をけずり、のみを使って織機のひな型を作ります。こんな日が幾日となく繰り返えされ続いていきます。二 階の研究室からは槌の音、木をけずる音が聞こえるほかは何も聞こえません。三人はいつ寝るともなく、いつ起きるともなく、夜と昼の見さかいもなく研究に取 りくみます。 翌年、明治九年やっと試作品ができあがりました。“しまりのよいいむしろができるにちがいない”期待をもって見守る眠亀 「万吉、やってみろ。」 「はい。」 カタン、カタン、踏み板をふむと、ヒが動いた、い草がたて糸の間にはいります。カタカタン、オサがい草を締め付けるとどうでしょう。い草はズタズタに切れてしまったではありませんか。 「失敗だ。」 「すみません。だんなさま。」 「もう一度やりなおしだ、万吉、図面を持ってこい。」 「はい、だんなさま。」 眠亀のこけたほお、くぼんだ目が異様に輝きます。三人はまた初めからやり直さねばなりません。 こうしてまた、二階へとじこもる毎日が続きます。研究が長びけば長びくほど家計は苦しくなっていきますが、妻のたかはそれでも何一つ文句も言わずかいがいしく働きます。 「だんなさま、お食事を、なすの初ものがありましたので買ってみました。」 「たか、すまぬのう。」 主人や助手へはごはんを出しても、たかはおかゆをすすってがまんしていました。万吉や財治郎へ給料が払えなくなると、着物や道具を売り、また、内職をしては米を買うというありさまです。やがて、 「とうとう磯崎のごいんきょさまは気が狂ったそうじゃ。」 町の人々はそううわさするようになりました。 あくる年の明治10年、第二回めの試作品ができました。こんどこそはと思った織機も、い草がきれて失敗に終わりました。
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眠亀の研究室
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